”口耳四寸の巻頭"

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No. 10 十干と長寿天皇(その2) 目次へ

魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」
その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す

「春耕」と「秋収」をもって年紀となす。・・春と秋でそろぞれ1年・・「春秋二倍暦」である。

魏略は「魏志倭人伝(三国志・魏志・東夷伝・倭人の条)」の基となった書物だ。 そこに倭国は春と秋でそれぞれ1年(歳)だとしている。
日本書紀を否定する根拠に古代天皇の長寿を上げる人(学者)が多い。
いまだに続く敗戦後の特異なイデオロギーが研究を阻害しているのかもしれない。

  神武天皇・・127歳にて崩御  崇神天皇・・120歳  応神天皇・・110歳

たしかに信じられないほど長寿な天皇が目白押しである。でもそれで「偽書」といえるのか? 仮に「日本書紀」が天皇制を美化するためにでっち上げられた書物とするならば、なにも127歳と 書かなくて60歳と書けばよかろうし、時代を過去に伸ばしたいなら別な天皇を創作すればよかった。 「日本書紀」の記述は素人目には「公正」にみえる。諸所(諸家)に散在している当時の書物や記憶を 集大成したもののようで、選者(編集者)の恣意的な操作・作文はほとんど感じられない。

  一書に曰く「xxxx」又一書に曰く「YYYY」

と異なる解説が随所に見受けられる。 天皇への悪口やスキャンダルも載せられている。とても「天皇制の美化」などといえない。
では何故に「神武天皇が127歳で崩御」なのか?そう・・それはそう伝わっていたからである。 古書や「語り部」が伝えた故事は魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」の頃の 出来事だったのに相違ないのだ。 「春秋二倍暦」を普通の「1倍暦」換算すれば 

神武天皇は64歳・崇神は60歳・応神は55で崩御・・

ごく自然な記録だ。 それでは「2倍暦」の残滓が今もどこかに残っているのではないだろうか。

神事では「茅の輪」がある。6月末日と12月末日に「茅の輪」を通って「一年」の息災を祈る。 「盆と正月一緒に来たよなテンヤワンヤの大騒ぎ」の歌詞があったが、盆と正月も、 祝いや慰霊の為の、半年ごとの行事と考えられるだ。もともとは同じ性格の行事だったのだろう。

中国の書物に「2倍暦」の痕跡があると云う人もいる。アイヌや南洋諸島にあった、とも云われている。
「騎馬民族説」などお偉い方の学説もあったが、一時の朝鮮半島からの影響はともかく、 我々の文化の根幹をなすものはあまりにも南方的だ。

高床の建物に、床に座り、赤子を負ぶう。稲作の伝播もおかしな話だ。暑いところの作物が何故、寒冷な満州や朝鮮をへて我が国にくるのだ。 南から島伝たいに来たものが、九州で分岐して、本州と朝鮮半島に伝わった考えるのが自然だろう。

「南国」は中緯度の日本よりも四季が不明瞭だし、2期作などはあたりまえだ。。 耕作でみれば、今で言う「1年」のサイクルは別の長さを持っていてもおかしくないのである。 「春秋二倍暦」を信じたい。

No.11に続く