ではどの天皇までが春秋二倍暦で書かれているのか?
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漢風諡号 |
御年 |
諸説あり |
和風諡号 |
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15代 |
応神天皇 |
130歳 |
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誉田天皇 |
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16代 |
仁徳天皇 |
83歳 |
倭王「讃」 |
大鷦鷯天皇 |
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17代 |
履中天皇 |
64歳 |
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去来穂別天皇 |
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18代 |
反正天皇 |
60歳 |
倭王「珍」 |
瑞歯別天皇 |
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19代 |
允恭天皇 |
78歳 |
倭王「済」 |
雄朝津間稚子天皇 |
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20代 |
安康天皇 |
56歳 |
倭王「興」 |
穴穂天皇 |
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21代 |
雄略天皇 |
124歳 |
倭王「武」 |
大泊瀬幼武天皇 |
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22代 |
清寧天皇 |
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23代 |
顕宗天皇 |
38歳 |
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16代の仁徳天皇から23代顕宗天皇の間に境界があるのだろう。
特質すべきは、この間の天皇は「倭の五王」として中国の南朝に使いしているのである。
宋書に記す五王「讃」「珍」「済」「興」「武」だ。ヘンテコな中国名一字で記されるのは和名の読みが長すぎるからだろう。
中国との外交を通して二倍暦から徐々にではあるが365日で1年の認識(記憶)が広まっていったはずだ。
実力不足の南朝(宋書)は倭の五王への除任を己の権勢誇示として残しているが、卑弥呼以来の久方ぶりの倭に関する記述である。
ところで倭王「武」の記載は叙任だけではなく、その上表文が「曰く・・」で宋書に残っている。後の聖徳太子の「日出る所の天使・・」とあわせ数少ない例で、日本側の文章を(そのまま?)載せている。日本側の記紀にはその記述が残されておらず、貴重なものだ。曰く:
・・上表曰・・自昔祖彌躬甲冑跋渉山川不遑寧処東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国・・
上表して曰く。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。・・・Wikipedia(雄略天皇)
雄略天皇が南朝の宋に上表したのが西暦478年ごろ。一方、かの卑弥呼が魏に使いしたのが239年頃、後を次いだ宗女「壱与」が魏に助けを求めたのは266年頃だろう。この200年の没交渉時代に倭の国に何が起きていたのだろうか?
「邪馬台国」から「大和国=日本国」への過渡期は中国側の混乱期(晋→南朝諸朝)に重なった為、記録はほとんど残っていない。
が、「魏志」には邪馬台国の状況として次のようにある:
境界所尽其南有狗奴国男子為王・・不属女王・
境界の尽きる所の南に狗奴国(くなこく)有り。男子をもって王と為す・・・女王に属さず
卑弥呼の時代を記した「魏志倭人伝」には卑弥呼や壱与が邪馬台国連合に属さない「狗奴国」の侵攻に苦しんでいたことが書かれている。。「素より和せず」と書かれるぐらいだから武力決着をつける以外なかったはずだ。そして:
或云、日本舊小國、併倭國之地・・・あるいは云う、日本は元小国、倭国の地を併せた
上記は「旧唐書」の中の幾つかの説の内の一つで「日本国が邪馬台国を併合した」と残している。さらに:
古事記や日本書紀には「国譲り神話」がある。
大和朝廷側の正史たる古事記や日本書紀の「国譲り神話」で、出雲国を「邪馬台国を盟主とした連合倭国」に置き換えればピタリと符合する。そして、魏志倭人伝には:
共立一女子為王名卑弥呼・・・一女子を共立して王と為す。名を卑弥呼・・
卑弥呼が連合国家に共立されていたと云うことは、共立を決める場所や会合があったことでもある。これと「出雲神話」での八百万の神々が集まって衆議(現在では縁談話ということになっている)する形態が、どこか通じるものを感ずる。その「邪馬台国を盟主とする連合倭国から国譲り」されたと考えるとすべてが無理なく理解できる。
ところで、国柄とは簡単に変わるものだろうか? 近年のロシアから「ソ連」そして又「ロシア」に代わっても国柄や国民性はあまりかわってはいないようだし、中国や韓国、又その相関なども千年以上同じようでもある。
卑弥呼が「生口」を献上して返礼品や、内乱への加勢を期待するのに対し、200年後とはいえ、雄略天皇やさらに後の聖徳太子の外交政策はどこか自信に満ちている。南朝の認可などは問題とせず、自ら「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・暮韓の諸軍事・安東大将軍」と名乗ったり、「日出ずつ所の天使、書を、日の没する所の天使に・・」と大国「隋」に使いする姿勢はあきらかに卑弥呼の邪馬台国のそれとは相容れないものだ。直系で無い国だからこそできることなのだろう。
更に200年も後に、記紀を編纂する時代、すでに伝わっていただろう魏志倭人伝の中の卑弥呼を自らの歴史の中に見出そうとしたに相違ない。でも適切な該当者が当時の古記録や語り部の記録にはかった。特に朝鮮半島における権益を理論付ける為に、その業績を神功皇后の物語に凝縮収録したのではないだろうか。近・現代でも卑弥呼を神功皇后や倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)になぞる説が多数でてくる。こじつけ同然の説と思うが、やはり無理だと思う。
そう、大和国(日本国)は邪馬台国ではないのだから。
参考文献:中国正史日本伝(1)石原道博編訳