”口耳四寸の巻頭"

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所長の戯言・寝言です。 前の頁へ
平成 26 12 7   次の頁へ
No. 12 出雲とデロス同盟(卑弥呼の居場所) 目次へ

邪馬台国の所在論には①故郷熱望論②自虐(反日)論③民族(愛国)論など、純粋に学問だけとは云いがたい、悪く言えば不純な論が結構多い。①は日本中にあるし、②は九州説になりやすく、③は大和説になりやすい。

変り種では江戸時代の本居宣長が③の立場でありながら九州説であった。[中国にペコペコするような邪馬台国は倭を代表するような国ではなく、一地方国家でしかない]との立場だったと解説した本を読んだ記憶がある。 さすがに大学者だと思う。中国の古典に書かれたことが全てと解釈するのではなく、女王に属さない国があること(記載が事実ある)を、考えろとの示唆なのだろう。

ところで、邪馬台国を「やまたいこく」と訓じているが、中国側が倭人の「発音」を当てた漢字の筈なので、当時の中国音でどう読むかが問題になる。

邪馬台国は「ヤマト国」と読む説がある。・・有力

そこから邪馬台国⇒大和朝廷が優位となってくるのだ。
しかし、前節で述べた両者の連面性(邪馬台国⇒大和朝廷)がないとすれば、国名≒地名の観点からは、同じ場所(大和)に両国が並立(対立)していたことになる。

箸墓古墳ここで倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)に登場いただく。
日本書紀の姫に関する取ってつけたような話に何か違和感を持っている。崇神天皇の叔母(古事記では大叔母)にあたるが、以降の皇孫には無縁であるのに何故、神代話に近い記述があるのか?又、その陵墓が大王を凌ぐほどの規模なのか?
昔から卑弥呼の墓=箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫の陵墓)の説が有力であるのは何故か?

箸墓古墳=卑弥呼の墓として矛盾は無いのか?

「国譲り」の話は出雲である。出雲の出雲大社は伊勢神宮に比する神様だし、大量の銅剣・銅鐸が発見された荒神谷遺跡も近くにある。卑弥呼の墓(≒住まい)が大和にあるとすれば離れた出雲との関係を説明できなければならない。出雲と大和は遠い。しかし出雲を連合倭国の祭礼の場・団結の象徴と考えれば卑弥呼の墓の所在と離れていてもよいのではないか。

邪馬台国を盟主とする倭の国をイメージするとき、場所も時代も違うが、ギリシャの諸国家(ポリス:都市国家)を思い浮べる。城郭の有無など、倭の国々とギリシャは大いに異なるのものの、同じ民族・同じ宗教を持つ国家の連合体と考えれば、出雲と卑弥呼の墓の距離のヒントを与えてくれるかもしれない。
ギリシャの都市国家群は大国ペルシャと対峙するときにデロス同盟を結んで結束した。その盟主は始はスパルタで後にアテネに代わった。同盟はよく機能したが、離脱したスパルタはペロポネソス同盟を創って後に戦争になっている。
ところで、デロス同盟のデロスはアテネにあった場所ではなく、アテネから遠く離れた神聖な島だった。ギリシャ諸国にとっての神聖な場所だったのだ。

アテネを邪馬台国にデロス島を出雲(大社)になぞればどうなるだろうか?

出雲と卑弥呼の邪馬台国は同じ場所でなくてもよいと云える。否、むしろ違う場所のほうが理解しやすいのである。卑弥呼は共立されていたのだ。倭国連合の盟主ではあったが同時に邪馬台国の女王でもあるのだから。

古い出雲大社 ギリシャに戻ればデロス同盟を私物したアテネはスパルタに敗れ、スパルタもテーベ(テーバイ)に敗れ、そして都市国家自体がやがてマケドニアに統一されていく。
邪馬台国を盟主とする連合国家の倭国も「時の法則」のように大君に集権(のような政体)された新時代の国家「日本国」に吸収されていったのだろう。

30年以上も前だろうか、NHKで箸墓古墳を扱った番組があった。「箸墓古墳=卑弥呼の墓」を印象付ける番組だった。ご記憶の方も多かろうと思うが、箸墓古墳の周辺には「旧国名」の地名が今でも数多く残っているというものだった。番組では数例を述べただけだが、興味がわいて調べてみた。出雲・武蔵・但馬・石見・越・備前・豊後・百済など陵墓から5kmほど以内に現在も多数残っている。昔はもっと多く残っていたのだろう。更に、その付近からはその地方の特徴を持った土器片も出土するという。倭人伝にいう「大いに塚を創る・・」と符合しているのだ。倭国連合の構成国が盟主邪馬台国の女王の墳墓造営に加わるのは自然なことであろう。 壱与の時代を経て後、倭国連合の盟主・邪馬台国は大和国に屈し、出雲大社を同盟のシンボルとする連合体は大和国に「国譲り」したのだ。その前に無くなっていた卑弥呼は邪馬台国の当時の領地内の箸墓古墳に眠むっている。
それから450年以上も後に、記紀の編纂にあたって、いかにも立派なこの墳墓を天皇家の歴史の誰かに当てはめようと試みたのだろう。地域に残っていただろう女王伝説や・造墓話を、実在していただろう倭迹迹日百襲姫の物語として日本書紀に記録したのは、異聞や伝承を書き残そうとした日本書紀の編者の律儀な姿勢なのだろう。

卑弥呼は邪馬台国の領地にあった箸墓古墳に眠り、出雲は倭国連合の代表(盟約)として大和国に国譲りした

のではないだろうか

写真・・Wikipedia

No.13に続く