”口耳四寸の巻頭"

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所長の戯言・寝言です。 前の頁へ
平成 26 12 8   次の頁へ
No. 14 任那と広開土王碑 目次へ

任那(みまな)は朝鮮半島の南部にあった地域で、後の三国時代(4~5世紀)で云えば百済と新羅に挟まれ、又南部は日本海に面していた。戦後しばらの間、思想的な呪縛から、任那や日本書紀にある「任那日本府」は語ることも憚られる様相であった。
「倭」が明らかに影響力を持っていたその地域は古事記や日本書紀では崇神天皇紀あたりから頻繁にでてくる。更にその扱いで大連の大友金村が失脚したりと日本史に与えた影響は大きく、正しい理解なしには古代日本史は語れない。
魏志倭人伝で、この地域での倭に関する主な記述は知っている範囲で以下の通り:

魏志東夷伝倭人の条 楽浪郡去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國 その(倭の)北西界の狗邪韓国に至る
魏志東夷伝韓の条 韓在帯方之南東西以海為限南興倭接 「韓」は東西は海で南は「倭」に接っしている
 同上 (辰韓) 國出鐵韓濊倭皆従取之 辰韓は鉄を産出、韓濊「倭」これをとる

他にも魏志韓伝では「辰韓(人)は風貌が倭人に近く又刺青も入れている(男女近倭亦文便)」とも記されている。

魏志は卑弥呼の時代前後を描いた歴史書だから、西暦250年ごろに倭人の領域が朝鮮南部に及んでいたことになる。前編記載通り、卑弥呼の連合倭国が大和国に国譲りしたとすれば、朝鮮南部の倭の領域も国譲りの対象地域になるだろう。それは日本書紀に書かれた崇神天皇の「任那」語源説と調和してくるのである。
その後のエポックを列記すれば:

神功皇后の新羅出兵---------------- (神功摂政元年)~ 日本書紀  
七支刀の献上(百済→倭)------------ AC268/372/468年? 書紀(神功記)  
倭の侵攻(倭vs高句麗)-------------- AC391年~ 広開土王の碑  
倭王「武」の上表-------------------- AC478年頃 宋書(南朝)  
任那四県の割譲(倭→百済)---------- AC512年?(継体天皇6年) 日本書紀  
白村江の戦い(日本vs唐・新羅連合)--- AC663年(天智2年) 日本書紀  


広開土王碑⑤七支刀の献上を④新羅出兵に対する謝意として、更に⑤の象嵌文字「泰?四年」を372年頃とすれば、④⑤⑥は因果ある一連の出来事とみなせる。
⑦倭王「武」の宋への上表は478年頃で、倭王「武」が神功皇后(気長足姫命)の4代目の子孫だか  ら: (478-370頃)÷4=22年で矛盾は無い。
⑥広開土王(談徳)の碑は死後2年後に建てられたもので信憑性は高い。但し、彼の一代記であっ  て、391年より前の「倭国-韓半島」の関係は碑文ではわからない。倭は391~407年の間に何度  も侵攻、平城(ピョンヤン)付近まで進出したという。
⑤七支刀と一緒に献上された「七子鏡」はボストン美術館にある鏡だろうと云う説がある。大仙陵古 墳(仁徳天皇陵)から明治時代に出土したと云われる。16代仁徳天皇は神功皇后の孫にあたる。 ⑧四県割譲で影響力を弱め、⑨敗戦を経て、半島での足がかりがなくなる。⑧⑨以外で、倭国の朝鮮半島への確執(執着)を示す事件は多数ある。主なもの以下:

継体天皇時代の出兵(磐井の乱に会う) 527年~ 磐井の乱平定後新羅に侵攻
宣化天皇時代の出兵(宣化2年) 537年?  
欽明天皇時代の出兵 562年? 任那の滅亡
欽明天皇の遺言 571年? 「新羅を打ちて任那を封し建つべし」
聖徳太子の征新羅軍の編成(推古天皇時代に3回) 600年頃 2回目は侵攻
再掲--白村江の戦い(百済再興戦) 663年 唐・新羅連合に惨敗
唐朝に於ける席次争い(vs新羅) 753年 新羅の席次を(上位→下位)
藤原仲麻呂の征新羅軍の編成 759年 内乱で中止
     

世界最大と云われる、巨大な15代応神天皇陵や仁徳天皇陵を見れば、その時代に朝鮮半島に強い影響力を持っていて当然と思える。
朝鮮最古の三国史記(1145年)にも倭の侵攻は随所に出てくるし、百済・新羅朝での倭人の登用も書かれている。
新羅に至っては、国王や首相も倭人だった時代があるという。

近年、半島南部で前方後円墳や弥生式土器(?)が見つかり、倭人の定住が明らかになりつつある。任那は半島南部の地方名と云うだけでなく、日本書紀に記載された通りの倭の力が強く及んだ地域だったのだろう。。

写真・・Wikipedia