”口耳四寸の巻頭"

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No. 13 四道将軍と稲荷山鉄剣 目次へ

それでは、どのように連合倭国は大和王朝(日本国)に併合されたのだろうか?

日本書紀には、10代崇神天皇の時に、四道将軍を全国に派遣して領域を拡大・確立したとある。

詳細な記録は残されていないが、北陸・東海の二道を征した大彦命/建沼河別命の親子は両道の中間ともいえる相津(会津の語源)で出会ったと古事記にある。
・東海道(伊勢~常陸)---- 建沼河別命    
・北陸道(越)------------ 大彦命    
・山陰道(丹波~但馬)---- 丹波道主命    
・山陽道---------------- 吉備津彦命    

埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」の稲荷山古墳から出土した鉄剣が昭和53年に改めて調査された。レントケン撮影の結果、さびた剣の両面から象嵌された文字が現れてビックニュースとなった。
「辛亥年七月中記・・」から始まる計115文字は世代数で云えば8代の父子名を連ねたものだった(下写真右)。剣の所持者(作成者)が21代雄略天皇の治世に記したことがわかるので、8代も前と云うことはほとんど崇神天皇の時代にさかのぼることになる。
更に驚くべきことは、その1番目に書かれた始祖とも云うべき人の名が「意富比垝→大彦」となっていることである。 四道将軍の一人大彦命は崇神天皇の伯父にあたる。会津までの足跡は記されているから、武蔵の地に子孫が栄えても当然であろう。鉄剣を残した「乎獲居:ヲワケ」が上祖名として意富比垝(大彦)の名を上げるのは、それが大王家をルーツに持つことの証となるからだろう。 稲荷山鉄剣 七支刀

金石文は金属や石に刻まれた文字だから、当時のものなら内容を含めて信憑性が一段と高いといえる。この稲荷山鉄剣以外にも、熊本の江田船山古墳の鉄剣にも75文字が刻まれていて、稲荷山と同じく「獲加多支鹵大王=雄略天皇」の名と思しき大王名が記されている。
大和石上神社にある有名な七支刀(写真左側)は金象嵌で裏表61文字ある。こちらはその由来が日本書記に「百済よりの献上品」として残っている。記事と実物一致する貴重なものである。

記紀では初代の神武天皇を除けば10代崇神・15代応神・16代仁徳・21代雄略が際立って記述量が多い。この天皇たちの御世に国が進捗したことを物語っている。

雄略の時代には九州から関東までの広い領域が大和朝廷の領域として確立していて、その基は遠く崇神の時代にあるのだろう。
崇神天皇には御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、更に
         御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)・・「初めて国を治めた」との追号もある。
日本書紀に朝鮮半島南部の任那(みまな)の記述がある。「みまな」の語源は崇神の「みまきいりびこ・・」からと説明している。
雄略天皇が 「祖彌躬甲冑・・渡平海北九十五国 」・・先祖が甲冑を着けて、海を渡って九五国を平らげ・・
と自慢げに宋に上表したその「祖彌」とは崇神天皇~応神天皇のことなのだろう。

写真・・Wikipedia

No.14に続く